1965
詩集『今晩は荒模様』より
「この海(the sea)」
非常に海がほしい
海水浴が ほしい とおもって行ったら
海は なかった
海水浴もなかった
曇っていて 雨が降り
あれは 海でない
わたしの体は 紫色にハレあがり
入水しない前から もう
死体の色が 感染していた
コーソよ
わたしのそばにいる男は
TキチガイよU
といいつづけて
恐怖のために 海水パンツにならない
皆 セーターをすっぽりかぶり
潮干狩をするか シャシンを撮る
スミコ夫人は 美しくてかわいい
S氏のレインコートは
テキトーに 汚れている
非常に なつかしい臭気が 何年間も
むこうから毎日カオリつづけ 繊維のすきま
から 人間の酒の味がする
おまえが結婚したら おまえの亭主に
なった男に 妬きもちやかすために
戻ってきてやるぞ
天気のわるい
うわの空から きこえてくる
だから 性悪の生えている男たちはかわいい
その性悪ばかりを 摘まんで
つくしのように 煮つめてたべよう
この昼
コーソよ
なぜ 息子を愛しちゃいけないの
と彼が きいた
それは よくはわからないが
息子だからといって どうして
わたしは 裏切らずに愛せよう
B・Nという名を
雲の間から きく
それが わたしの恋人の名だということだ
わたしに恋人がいただろうか
いるのだろうか
それは わたしの永遠の名ではないか
すると わたしに恋人はいない
晴れたり 曇ったりする この日ごろ
ユーウツなわたしの内臓のテラスの向うで
スミコ夫人がホホエム
スミコ夫人の飼いゴロシテル ヤモリは
スミコ夫人のように かわいい
ヤモリとスミコと どちらが かわいいか
わからない
ヤモリはスミコ夫人より ちいさくて
ちいさいカオをしている
やがて一層ちいさくなって
ミイラになるはずだ
すると
どっちがほんとに かわいいんだろう
ミイラは神だが
スミコ夫人は生きている
生きてうごいて アニオン・サラダをつくる
玉葱の匂いときたら 魅力的だ
玉葱をたべる女にむかって
サンザン キスする男もいる
サンザン 泣き濡れる男もいる
わたしは神に逢いたいと つねに突然
ミュリエルはいう
どうしてそんなに神に逢いたいのかしら
その男はどうして神なの どうして
タエコはどうしてを十ぺんくらい
つづけてくれるが
どうしてを十ぺんつづけても
物語はマイナーの音をますばかりで ただ
コルトレーンのように 吹きつづけるだけ
だろう それに
ハートマンのように 小味にひそかに唄い
唄った部分のふしぎな哀しさばかりは
誰にも きこえない
誰にも聞こえないところで通常 詩人たちはかくので 人にはあの人おんちでないか
という
空は晴れていて 5月には鯉のぼりが
のぼるだろう とおもうよりしょうがない
そこで
あ、あの人たちが
お茶漬をかきこむ男がきこえる
ニックを愛した
そのようにカウを愛せるか が
愛せないでしょう わたしたち
わたしたち
ものほしくて ものほしい
あの人の たべるプディン
あの人の たべるイチゴクリーム
あの人と 同じのがたべたいという切なさ
それが かなえられる うれしさ
それは 愛でも恋でもない
欲望であり アイ・ミス・ユーである
アイ・ミス・ユーというのは
人間だけでなく 猿でも犬でも鳥でもある
カウという猿はアニオン・サラダがきらいだ
だが アニオン・サラダがすきな猿の
蚤をとってやり 毛をなめてる姿は
せつない猿のフィーリングだ
すべての芸術家は
暗黙のうちに猿のフィーリングを知るので
あるよ
雨が降り つめたくて 今日も明日も
海で泳げない このかなしさ
だが
ニックは 死なないだろう
彼のふれる水は 皆アルコールでできており
その水を 彼は内臓に泳がせるだろう
だが 死んでも死なない記憶
そこでクレオパトラとアルスランとニックは
生きるだろう
アルスランは生きていた頃 ジンギスカンに
きらわれていたとしたとこで それが何だ
彼は死んでしまい わたしは彼を忘れない
海は なくてもある
海水浴は いつも記憶の海で
まんべんなく死者をよせ集めて行われる
生きているのに死体もあり
死んでも生きてるのもある
混浴である 内の内なる海の海よ
だが これでいいのか
まったく さびさびしいばりではないか
丘にはアナナスばかり咲いて
そこで
わたしはきいた おそるおそる
この詩でいいかしら
カンゼンとタエコは 咆哮した
この詩でイケ
イキナサイ!